厚岸町の歴史物語

~明日はいつも、海からやってきた~

豊かさの交点

 厚岸の名前が初めて文献に登場するのは今から380年ほど昔、寛永年間(1624年~1643年)のことである。慶長9年(1604年)に成立した松前藩の文献に、アッケシ場所を開設したという記事が見える。しかし、この地に人間が暮らし始めたのは、それよりもはるか古代にさかのぼる。

 現在、厚岸では約90カ所の遺跡が確認されている。発掘された住居跡としては最も古いもので縄文時代前期ないし中期、およそ6千年前である。縄文時代から続縄文時代、擦文時代、そしてアイヌ時代から現在に至るまで、時代時代に増減はあるものの、この6千年の間、絶え間なく人々の暮らしが続いていたことを遺跡は物語る。そしてこのことは、数千年わたって人々の暮らしを支え得た豊かな自然の恵みが、この地にあったことを示している。

 厚岸の歴史がもつ特質の第一は、オランダ船、後にはロシア船やオーストラリア船という具合に、自然の良港として立地によって、外国船がたびたび訪れ、諸外国との接点になってきた点にある。その二は海の資源の豊かさにある。そこには資源をよりどころとするアイヌ民族の存在や、交易で訪れる松前藩との交点が生まれている。そして特質の第三が、松前、函館と根室、千島との中継地としての役割であった。

最古の記録

 厚岸に暮らす人々について記されたもっとも古い記録は、日本人の手によるものではない。それは長らくオランダの国立総合公文書館に眠っていた。寛永20年(1643年)、オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号が厚岸に寄港し、当時の厚岸に様子を航海記録に残したものがそれである。

 記録にはノイアサックという長の元で暮らしているアイヌの生活とカキに代表される豊かな山海の幸に恵まれた厚岸の自然が記されている。記録に描かれたアイヌたちは、慎み深く、長ノイアサックを中心に秩序だった生活を送っていた。フリースの部下とノイアサックの娘に誤解を招く行為があったとして、ノイアサックは怒り、村人を集めて自分の娘を打って懲らしめた。このためフリースは、ノイアサックに、船員の行為の詫びとして、長に衣類と刀を与えて怒りを鎮めたという。村人は、フリースらに機会のあるごとにカキとハマナスの実を贈り物として届けている。当時から厚岸ではカキが重要な産物だったことがうかがえる。

 厚岸の語源は、アイヌ語のアッケウシイ(アツ=オヒョウニレの樹皮、ケ=はがし、ウシ=いつもする、イ=所)であるという。カストリクム号の航海記録では、当時のアイヌが自らの土地を「アッキス(オランダ語発音)」と呼んでいたことが記録されている。いずれにせよ「アッケシ」という地名はアイヌ民族の言葉であり、それはこの地に和人より先に住んでいた人が誰なのかを物語っている。

クナシリ・メナシの戦い

 カストリクム号の厚岸での滞在は、8月15日から9月2日までの18日間に及んだ。その間、彼らは日本の交易船にも遭遇した。
カストリクム号の寄港する以前、寛永年間、厚岸は松前藩とアイヌ民族の交易場、すなわち商場であった。蝦夷地の資源に対する関心は、アイヌ民族との交易を通じた資源の入手から、本州の商人が資本、道具、働き手を連れてきて、自ら造材や漁業を直接経営することに移っていった。これが場所請負制度といわれるものである。

 この時、カストリクム号が出会った和人は場所請負商人ではなく、藩主手舟の上乗役小山五兵衛であった。厚岸に場所請負商人が登場するのは、安永3年(1774年)飛騨屋が、厚岸・室蘭・霧多布・国後の4場所を請け負うようになってからである。飛騨屋は、エゾマツの造材を一手に引き受けて、江戸や大阪に回送した。飛騨屋による一手請負は、飛騨屋が松前藩に貸し付けた5千4百両の返済の代わりとして20年間の契約で請け負ったものである。

 こうして木材商である飛騨屋は不慣れな場所経営に乗り出すのだが、20年という限られた期間内に、松前藩に貸し付けた金額を場所経営の中から回収しなければならない無理が、アイヌの酷使につながり、寛政元年(1789年)のクナシ・メナシの戦いというアイヌ民族最後のほう起といわれる争いを引き起こした。

 寛政元年5月7日、クナシリ(国後)のアイヌが運上屋を襲い、13日には対岸のメナシ(根室地方)に渡り同地のアイヌと連合して和人71人を殺害した。戦いの起こる前に、同地にはクナシリ運上屋に来た和人が、アイヌを毒殺しようとしているとの噂が流れていた。そして、運上屋で飯や酒をもらったアイヌの不審な死が続いた。こうしたことが酷使され続けたアイヌの心に火をつけ、ほう起の直接的原因になったとみられる。戦いの中核となった厚岸から国後にかけての地方で暮らすアイヌは「西の蝦夷は従順なり、東の蝦夷は剛強なり」といわれたように極めて独立性の高い集団であり、国後の場所請負商人となった飛騨屋の勢力を一時追い払うほどであった。彼らの高い独立性を保証する経済的な基盤として、国後とその背後の千島列島やカムチャッカ半島があったといわれる。ところが1780年前後から択捉島からカムチャッカ半島にかけてロシア人が進出し、経済基盤を大きく狭められたクナシリ・メナシのアイヌは、和人の経済力に屈服せざるをえなくなったことも、戦いの遠因としてあげられている。

 国後アイヌの長ツキノエと共に、争いを収めることに中心的な役割を果たしたのが、厚岸アイヌの長イコトイである。イコトイらは松前藩が派遣した鎮圧隊と戦闘になる前に、蜂起に関係したアイヌを投降させた。結果として和人を殺した罪で、アイヌ37人が処刑され、その首は松前の立石野でさらし首となった。そして争いの原因を作った飛騨屋は場所経営の権利を取り上げられた。

 寛政7年(1796年)、イコトイは松前藩に反抗し、郎党を引き連れて択捉島に渡るという事件を起こしている。寛政10年(1799年)に幕府の直轄地となっていた厚岸に戻ってきたが、幕府からなんの処分もなかった。幕府にしてもイコトイの影響力を無視できなかったのであろう。イコトイと共に調査を行った最上徳内は『北海道誌』の中で「英気衆を超え、衆夷之を畏る。勇にして且つ智ありと謂うべし(一部抜粋)」と評している。

赤蝦夷風説考

 17世紀末、靖国とネルチンスク条約を結び、その進出の方向をシベリアに向けたロシアは、やがてカムチャッカ半島に到着。18世紀に入って千島列島に沿って南下し始めた。ロシア人が千島のアイヌに課した毛皮税は過酷で、同地のアイヌは南に逃れ始め、ロシア人もそれを追って南下した。宝暦9年(1759年)、厚岸場所に赴いた松前藩士湊覚之進は、同地のアイヌからロシア人の南下の情報を得て、松前藩に報告した。しかし、松前藩はロシア人活動を秘密にし、幕府には報告しなかった。

 こうしたロシア人の動向を『赤蝦夷風説考』という書物に著し、警告を鳴らしたのは仙台藩医工藤平助である。『赤蝦夷風説考』は当時の老中田沼意次への建白書として書かれたともいわれ、これを見た田沼意次は、さっそく蝦夷地の大々的な調査に乗り出した。天明5年(1785年)に行われたこの調査に参加した一行の中に最上徳内がいた。

 徳内は、厚岸を拠点にイコトイの案内で国後・択捉・得撫まで調査を行い、択捉島でロシア人からロシアの南下政策の情報を聞き取る。最上徳内は、この後も厚岸を拠点に探検を続け、寛政3年(1791年)には現在の厚岸神社の前身となる神明宮を建立している。

 蝦夷地のはるか北方に姿を現したロシアの影は、やがて厚岸にも現れる。安永8年(1779年)、ロシア人イワン・アンチーピンおよびシャバーリンを長とする一隊が厚岸の筑紫恋地区にやってくる。そして、寛政4年(1792年)、ロシアの使節アダム・ラックスマンが女帝エカテリーナの国書を携えて、日本に交易を求め、根室沖に姿を現した。その翌年、ラックスマンは厚岸を経由して松前に上陸。幕府の使節と交渉を持つ。

 ラックスマン事件など、度重なる外国船来航に苦慮した幕府は、寛政10年(1798年)、近藤重蔵、最上徳内らを中心とする巡察隊を派遣。この報告に基づいて、寛政11年(1799年)、東蝦夷地を松前藩から取り上げ、幕府の直轄地とした。東蝦夷地の重要拠点であった厚岸には、会所が置かれ幕吏が滞在するようになった。

 対ロシア防衛という明確な目的を持つ幕府の直轄支配では、現地のアイヌの心を日本に引き留めることが重要視された。幕府は千島や択捉でロシア人によるキリスト教布教が進んでいることを憂慮し、元禄5年(1692年)に出した『新寺建立禁止令』を自ら破って、文化元年(1804年)、将軍家斉の命によって官営国泰寺を建立することを決定。また、場所請負商人による著しい搾取が、クナシリ・メナシの戦いの原因となったことから、場所経営は幕府が直轄することとなり、アイヌの経済的な環境も幾分改善された。

 有事の際、派兵と連絡を速やかにする必要から近藤重蔵らを中心に、函館から釧路に続く連絡路が整備され、厚岸と江戸を結ぶ海路も開発された。また、間宮林蔵、伊能忠敬によって、蝦夷地の測量が実施され、はじめて完全な北海道の地図が作られた。

 こうして東蝦夷地の開発が進むと、その中心地であった厚岸では、千島、根室方面と松前、函館を結ぶ中継地として、かつてない賑わいを見せるようになった。

コンブロード

 寛政3年(1791年)に記された『東蝦夷道中記』には、厚岸場所の産品として、ラッコ・アザラシ・シカの皮、熊胆、ワシの羽、干さけ、魚油、干たら、にしん、塩カキ、塩くじらなどがあげられている。生産高およそ3千石とあり、近年になって昆布も生産されるようになったと記されている。厚岸が江戸後期を通して外交上の最前線であり続けたのは、その地勢的な位置ばかりではなく、海産資源の豊かさによるところも大きい。

 厚岸場所の初代場所請負商人であった飛騨屋久兵衛は、クナシリ・メナシの戦いの後、場所経営の権利をはく奪される。次いで村山伝兵衛が請け負い、その後、例外的に幕府による直接経営が試みられた時期もあったが、明治までの漁場の担い手は、芭蕉請負商人だった。米屋藤兵衛、竹屋長七などが請け負い、天保元年(1830年)から明治まで山田文右衛門が請け負っている。

 場所請負商人によってもたらされた産物は、松前、江差、函館の蝦夷三港から、主に北前船によって当時の一大消費地であった大阪に運ばれた。昆布や塩カキなどの産物は、さらに下関から長崎へと運ばれ、長崎俵物として中国に輸出された。蝦夷地から中国大陸にいたる海産物の流通は、近年、コンブロードとして注目を集めている。

 寛政年間の近藤重蔵の択捉探検に同行し、択捉航路を発見したのは、江戸後期の豪商として名高い高田屋嘉兵衛であった。嘉兵衛の弟、金兵衛は厚岸に幾度となく足を運び、国泰寺にも参拝を欠かさないでいた。国泰寺住職による記録『日鑑記』には、こうした商人たちの活躍の足跡が随所に出てくる。

 幕末まで、厚岸を請け負った山田文右衛門も北海道の歴史においては欠くことのできない人物である。文久元年(1861年)、投石による昆布養殖法を開発し、今の昆布王国北海道の基礎を築いたのである。もっとも、こうした場所請負商人による厚岸場所の繁栄の陰には、現場労働者として酷使されたアイヌの人々の存在があったことを忘れてはならない。

黒船来襲

 ナポレオン戦争によってロシアの注意が極東から離れ、蝦夷地にも平安が戻ってくると、文政4年(1821年)、厚岸は幕府の直轄から再び松前藩の手に戻された。しかし皮肉なことに、松前地になってから、しばらくなりを潜めていた外国船が、再び厚岸の海に出没するようになる。

 天保2年(1831年)2月18日、ウライネコタン沖(現、浜中湾羨古丹)に突然、外国船が出現し、20日には乗員が上陸して、近隣の空き家などに放火する事件が起こった。事件は松前藩の詰め所のある厚岸に届き、詰所の役人、弓矢や馬の達者なアイヌなど45人が現地に向かい、双方で鉄砲を撃ち合う戦闘となった。17日間の断続的な戦闘とにらみ合い後、3月4日、異国船は捕虜を返還すると突然出航した。現在、この船はオーストラリアの捕鯨船『レディ・ロウェナ号』と考えられている。

 天保15年(1844年)、今度はフランス船が突然バラサン沖に出現した。この船は燃料や食糧などの欠乏で来航したことがわかり、これらを与えると静かに船出した。嘉永3年(1850年)、オーストラリアの捕鯨船イーモント号が末広沖で難破し、乗組員32人が救助される事件が起こった。この時の厚岸の人々による献身的な救助が100年以上後、厚岸とオーストラリア・クラレンス市との固い友情(昭和57年、姉妹都市提携)を生み出す。

 こうした度重なる外国船の出現は、嘉永6年(1853年)のペリー浦賀来航にいたる日本を取り巻いた歴史の大きな波動の一つであった。安政元年(1854年)、日米和親条約を結び、ついに日本は開国する。翌年、函館を開港し、厚岸を含む蝦夷地は、再び幕府の直轄地となった。

 幕府は、一部の直轄地を除き、津軽、南部、秋田、仙台藩(後に会津、庄内)の各藩に蝦夷地支配を分担させ厚岸は仙台藩の支配となった。もっとも、これらの分配支配も、幕府の強い制約と蝦夷地がまだまだ広大な辺地であったことから、ほとんど見るべき成果もなく、明治維新を迎えた。

 慶応3年(1867年)、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は、大政奉還を決断、同年12月9日、王政復古の大詔が下り、時代は江戸から明治へと変わった。発足したばかりの新政府にとっても、国防上、蝦夷地対策は緊急課題とされた。明治元年には函館裁判所が置かれ、重要拠点であった厚岸には役人が派遣された。函館戦争の混乱を経て、明治2年、開拓使が設置されたが、その財政基盤は十分ではなく、一部の直轄地を除き、ほかは諸藩による分領支配に委ねる方針となり、厚岸は佐賀藩の支配するところとなった。

 同時に蝦夷地支配を命じられた諸藩の中でも佐賀藩は積極的で、場所請負商人に対して漁場一カ所につき移住者5戸の割合で移民を進めるように指示し、藩自らも積極的に移住を図り、佐賀藩内田伊七の記録によれば、約200戸に上がる移住者を厚岸郡内に配置したという。佐賀藩の支配は明治4年の廃藩置県によって終焉を迎え、実際に厚岸に移住したのは数少なかったが、その後の本州からの移住を促すきっかけとなった。

苛責

 幕末から明治へ。この歴史の転換期を、厚岸の先住民族であるアイヌの人々はどう生きたか。クナシリ・メナシの戦いの後、アイヌの独立は完全に失われ、和人の社会・経済に組み込まれていった。漁場を経営していたのは和人であったが、和人の指揮の下、実際に漁場労働を行っていたのはアイヌでり、漁場労働のほかにも、会所や国泰寺などのさまざまな業務の下働きにアイヌは駆り出された。文化6年(1809年)ころの厚岸におけるアイヌの人口は戸数173戸、人口874人と記録されている。

 文政4年(1821年)に松前藩の支配が復活すると、再び場所請負商人によるアイヌへの収奪が強まっていった。それに輪をかけるように、災害と伝染病が襲い、アイヌの人口を急速に減らしていった。特に天保14年(1843年)の地震では、厚岸だけで34人の被害者を出し、弘化3年(1846年)から4年にかけて流行した天然痘によって、154人のアイヌが命を失った。安政4年(1857年)には201人までアイヌの人口は減っている。安政5年(1858年)に厚岸・根室を旅した松浦武四郎は『廻浦日記』で「日夜の差別なく苛責し、寒飢のために身を苦しましむる故に、春夏に移るときには是皆病を生じて死す」と書き残している。こうして厚岸でのアイヌ人口が減ると、場所請負商人は、沙流地方や勇払地方からアイヌを連れてきて漁業労働に従事させるようになった。

 明治になると開拓使は、アイヌの姓名を和人風に改める布告を出すなど、和人とアイヌを同一化する政策を進めた。アイヌは、幕藩時代以上に生活が困窮し、その民族文化も奪われていった。あまりの惨状に、政府も保護策をとる必要を感じ、明治32年、北海道旧土人保護法が布告された。この法律は、アイヌに農業を営ませることによって自立を図ろうとするもので、厚岸では43戸が農地の貸与を受けた。こうして本来、狩猟民族であったアイヌは民族の言葉と生業を奪われ、農耕を行うようになったのである。こうした時代を象徴する人物として太田紋助がいる。

兵農一如

 太田紋助は、弘化3年(1846年)、場所請負商人山田文右衛門の番人であった中西紋太郎とアイヌの女性シャリコトムの間に生まれ、幼少のころサンケクルと呼ばれたが、明治になって太田紋助と名乗った。早くに父を亡くし、国泰寺の寺男として働き、ここで学問と農業に対する知識を身に付けた。明治2年に佐賀藩が厚岸を支配すると、紋助は藩の開墾雇となって藩の開拓を助け、開拓使時代になっても、牧畜取扱雇として開拓に奔走した。アイヌ民族に対しても私財を投げ打って農場を開き、共同経営による利益を積み立てて生活改善のための資金にするなど、同族の生活向上のために尽くした。

 太田紋助の名前が、歴史に永遠に記録されることになった事業は、明治23年の太田屯田兵村の設置である。明治8年に屯田兵制度が行われると、紋助は厚岸にも屯田兵が入植することを予期し、当時は未開であった太田地区を調査して、兵村設置にふさわしい場所として当局に報告した。こうして屯田兵村が開村し、最大の功労者太田紋助の名前を不朽のものとするために、新しい兵村は『太田村』と名付けられた。

 屯田兵制度は、農耕・開拓と北方防衛の両任務に、維新によって身分を失った士族の授産という目的もあった。明治23年に440戸が入植した厚岸の太田屯田の中には、山形県鮎貝城5万石の城主本庄家の当主や、代々上杉家の家老で、川中島の合戦で名高い柿崎和泉守影家の直系子孫などが含まれていた。わずか20年前まで『殿様』と呼ばれ、雲上人の身分であった一族が、屯田兵として開拓のクワを握るようになったのも明治の時代であった。屯田兵村の誕生は、登場したばかりの厚岸の商工業を大きく飛躍させる契機となった

商都沸騰

 明治9年、場所請負商人の支配を引き継ぐ漁場持が廃止され、明治13年には、開拓使によって海産物の自由販売が認められるようになった。明治20年には水産税が軽減され、折からのニシン漁の豊漁も手伝い、水産業が興隆する条件が整えられていった。水産業が盛んになるにつれ、商業者も盛んに厚岸に出店するようになり、湾月町・若竹町を中心に商店街が形成されていった。

 これら厚岸町の水産業・商工業の基礎を作った人物には、明治の人間らしい壮大な気宇にあふれる人物が多数いた。
嘉永元年(1848年)に近江国大津に生まれた上田勘兵衛は、商人になろうとして上方で事業に失敗。「男子失敗の地に恋着するよりも裸一貫、新天地を求めるべき」として明治14年に函館に渡る。この時の所持金はわずか50銭。厚岸で遊郭を営む倉前藤吉と知り合い厚岸に渡り、遊郭の下働きを勤めた。この間、節約貯蓄を行い、明治17年に若竹町にて木炭販売店を開業する。勘兵衛の商才と努力あって、事業は順調に伸び、海産物の売買から漁場経営まで事業を広め、京都に支店を設けるまでになった。明治の後半には、全道でも有数の事業家として知られ、厚岸町の元老として重きをなすに至った。

 中川喜三郎は、安政4年(1857年)に備前国佐賀に生まれ、明治7年、19歳の時、江藤新平の乱(佐賀の乱)に加わり、敗走して朝鮮に渡った。帰国後、私塾を開いて弟子の教育に当たる傍ら、北海道広業商会の設立に参加した。塾の門下生には後の北海道長官西久保弘道や藤井海軍大将などがいたという。厚岸には広業商会厚岸出張所主任として来町。厚岸に来てから喜三郎は、この地の将来性に着目して一族を呼び寄せ事業を始めた。明治25年には新たな海産商を興した。特に昆布の取り引きによって財を成し、最盛期には昆布採取船260隻を所有し、根室、釧路地域の昆布を一手に取り扱った。雨竜郡納内村や十勝池田村に広大な農地を所有し、これらの地方の開拓に貢献した。

 明治。厚岸のまちは、これらフロンティアスピリットにあふれる起業家、今の言葉でいうベンチャーキャピタリストたちによって築かれていった。

 次のエピソードは、当時の厚岸町民の先進性を物語る。
厚岸から函館、函館から北前船によって大阪、長崎、そして中国へと運ばれていた厚岸の海産物は、函館が開港地に選ばれると、ここから直接、イギリス船、アメリカ船によって中国に輸出されていたのだが、厚岸・函館間の輸送を町外資本に委ねるのは悔しいと、池田儀右衛門が中心となって55トンの西洋式帆船厚岸丸を建造して、厚岸・函館間の貨物輸送事業を始めた。厚岸丸は明治15年に難破し事業は霧散したが、当時としてはまことに遠大かつ斬新な事業であった。

 厚岸の主要海産物である昆布は、ヨードの原料として欧米にも輸出されていたが、明治23年、輸入元のドイツ・セーリング社が原料価格を急に引き下げ、厚岸の昆布漁民を困惑させた。そこで、後に衆議院議員となる木下成太郎は、明治24年、バラサン岬にヨード製造所を設け、日本で初めてヨード製造に成功。この功績によって明治26年、北海道庁より表彰される。

 木下成太郎は、慶応元年(1865年)に但馬国(兵庫県)に生まれ、若くして自由民権運動の壮士として国事に奔走した。その後、厚岸が今後有望になるとみて、明治27年に居を厚岸に移し、『蝦夷の燭』という雑誌や『厚岸新聞』を刊行した。明治45年に衆議院議員に当選。中央政界では、大木遠吉伯爵と共に宰相原敬を支え、特に北海道の開拓事業に関しては、大きな働きをした。幾度も大臣就任の話があったが、その都度、猟官運動を潔とせず、固辞し続けたという。

 カキは厚岸の名産として場所請負時代から知られ、明治12年には開拓使によってカキの缶詰所が作られた。しかし、この工場は多額の赤字を出して明治17年に閉鎖せれてしまった。こうした『官』による稚拙な商法を後目に、民間人である小島利兵衛は、独自にカキ加工を進めた。小島は明治8年に厚岸湖のカキ研究を志して湖畔に移住。明治15 年に清国人黄三梅からカキの乾燥法とオイスターソースの製法を学び、明治16年には東京で開かれた水産博覧会で研究の成果を披露した。この製品は高い評価を受け、横浜在住の清国商人から高い値で引き合いがあった。小島はカキ醤油を初めて製造し、カキの佃煮、酢漬け、スープ、缶詰など多様な商品を開発し、それぞれ各地の共進会などで高い評価を受けた。また厚岸の冬の風物詩である氷下漁も、明治27年、小島が始めたといわれる。今も名高い『厚岸のカキ』というブランドを築いたのは、小島の尽力によるところが大きい。

 こうして豊かな漁業資源を背景に水産業・商工業が盛んになると、厚岸の人口も急増し、明治33年(1900年)には一級町村制が施行され、厚岸町となった。明治40年代には厚岸湾がニシンの豊漁で沸き、漁期には東北、北陸から大勢の雇い漁師が集まり、浜は好景気を迎えた。こうしたなか、北海道東部で初の国指定重要文化財となった正行寺本堂が明治43年に移築。これは寛政11年(1799年)に現在の新潟県糸魚川市にある満長寺の本堂として建築されたものであった。大正元年には人口が1万人を超えた。

戦乱の影

 時代が明治から大正・昭和に移ると、第一次世界大戦から、日中戦争、そして太平洋戦争という戦乱の影響を、厚岸も強く受けるようになる。
 大正と年号が変わって間もなく、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、穀物相場の高騰を招き、北海道はバブル的な好景気に沸いた。こうした時代の空気の元、大正6年の鉄道開通と相まって、投資熱が高まり、中小の企業が相次いで設立された。一方、庶民は物価高に悩み、生活は逼迫していった。

 また、鉄道の開通は厚岸のまちづくりを大きく変えた。厚岸湖の北側、いわゆる湖北地区の発展を促し、物流を大きく変え、上尾幌地区の石炭産出というまったく新しい産業を生み出した。混迷する時代に、鉄道と並んで厚岸に光を与えたのが、大正5年の厚岸電気株式会社による電灯の点灯であった。

 大正時代は、厚岸町の農業においても著しい進展がみられた時期である。太田地区には、屯田兵が入植するとともに太田村として戸長役場が設けられたが、稲作や畑作には適さない風土であり、屯田兵の予備投編入とともに村は疲弊していった。新琴似屯田の一戸あたりの農業生産高が188円だったころ、太田屯田はわずか63円にしかすぎなかった。

 明治44 年、北海道庁は太田村に釧路農事試作場を設け、この地に合った作物の栽培試験を行った。大正2 年には農林省十勝種馬所所属太田種付所が設置され、馬産振興も図られていった。日本軍による大陸進出が進むと、軍馬としての需要が高まり、産業としての地位を確立していった。畑作から馬産への転換は、尾幌地区にも波及した。こうした産業構造の転換と鉄道の開通が相まって、太田村の運営はようやく軌道に乗り、大正12年に二級町村制を施行することになった。

 しかし、大正から昭和に移ると、戦争の影はいよいよ色濃く厚岸を覆うようになる。昭和6年に満州事変が勃発し、日本が中国との泥沼の戦争へと進むと、大陸での排日運動は激化の一途をたどり、中国市場に依存してきた昆布生産が打撃を受け、折からのニシンの不漁が重なって町の経済に大きな影響を与えた。しかし、厚岸の漁業者、事業者は時代に流されるのを待つばかりではなかった。

 埜邑直治は北鳳水産を興し、明治以来の缶詰工場の再建を図った。また商業者も、昭和7年、共同で厚岸魚菜市場を設立し、町外の業者によって左右されていた海産物、農産物の流通を自らの手に取り戻した。昭和6年、中国市場から完全に閉め出された漁業者は、ようやく手に入れた動力船を武器に危険を省みず、北千島列島まで出漁するに至った。

しかし、こうした努力も太平洋戦争という大波にすべて飲み込まれてしまった。

新しい時代

 昭和20年8月15 日、太平洋戦争が終結し、この日から戦後というまったく新しい時代が始まった。
 幕藩時代から厚岸の経済を支えてきた漁業においては、昭和24年、新漁業法が制定され、私有物であった漁業権が共有となり、漁業協同組合が発足した。それまで商業資本の従属下にあった漁業者の経済的自立が図られた。戦後の機械化・工業化の進展にともない漁船は大型化し、漁場が沿岸から遠洋へと拡大した。沿岸では豊富な昆布と、北海道最後のニシン景気に沸き、北洋ではサケ・マス漁が拡大していった。

 戦後の農地改革によって民主化が進められた農業では、戦前に畑作からの方向転換が図られた酪農業が完全に営農の中心となった。昭和25 年に牧野法が改正になり、草地改良事業が行われ、昭和36年度から農業構造改良事業、昭和40年度からは土地基盤整備事業が実施され、町でも昭和40年度から酪農近代化計画を開始した。これらの政策によって規模の拡大と経営の近代化が図られていった。商業においては、昭和30年、道立厚岸自然公園に指定されたのを契機に、観光という新しい産業が登場した。昭和37年には『あっけし牡蠣まつり』が始まる。

 行政においても民主化は進み、昭和22 年度の統一地方選挙によって、初めて町長は町民による直接選挙で選ばれた。一方、昭和25年、町村合併促進法が成立すると、昭和30年3 月31日、太田村と厚岸町の合併が実現し、新生厚岸町が誕生した。そして昭和47年、待望の厚岸大橋が完成し、厚岸湖を隔てて両岸に広がっていた二つの市街が一つになった。

 しかし、戦後という時代は、順風ばかりが吹いたのではない。ヨード産業は、戦中も厚岸経済の一翼を担ってきたが、軍隊という最大の需要先が消えると同時に消滅した。大正6年から上尾幌地区で採炭されてきた石炭は、戦時中に全席を迎えたが、戦後のエネルギー革命と安価な海外炭の輸入により、昭和35年から昭和40年にかけて全山閉山した。昭和27年、十勝沖地震によって津波に襲われ、3人の死者と18人の重傷者を出すという災難もあった。昭和40年代からの高度経済成長は、地方から都市へと人口を移し、それにともなって地方の過疎化は進んでいった。

 厚岸町においても、昭和35年の国勢調査で2万人を超えた人口も、平成10年現在で1 万3千人と、著しく減らしている。漁業においては、昭和44 年の群来を最後にニシンが去り、昭和51 年のアメリカによる2 百カイリ経済水域宣言にソ連、カナダも追随したことによって北洋漁業も衰退していった。

 しかし、厚岸には幾度となく試練を乗り越えてきた歴史がある。逆境を前に進む糧に変えた先人たちの心の遺産がある。
21世紀の厚岸漁業のシンボル的存在として期待されているシングルシード方式のカキ養殖は、嘉永3年(1850年)に難破したオーストラリア船を救助した史実を縁に結ばれたオーストラリア・クラレンス市との姉妹都市提携からもたらされたものであり、江戸後期に厚岸を舞台に活躍した最上徳内を縁に結ばれた山形県村山市との友好都市提携は、現代のコンブロードともいえる物産交流にまで発展してきている。そして、厚岸のすべてを生み出す基盤となったこの豊かな大自然は、ラムサール条約登録湿地として、世界的に価値が認められた。

 歴史は懐かしむためだけにあるのではない。それは、未来のために、前に進むためにこそある。厚岸のおよそ6千年にわたる歴史の積み重ねは、21世紀においても未来に進む糧になろうとしている。

 
厚岸町歴史物語(1999年3月発行の厚岸町要覧に掲載)
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