蝦夷三官寺とは
江戸幕府が1804年に現在の伊達市・様似町・厚岸町に建立した3つの寺院の総称です。
各寺は蝦夷地で死亡した和人の葬儀とアイヌ民族への仏教布教を目的に建てられました。背景には対ロシア政策として幕府による蝦夷地支配を示す狙いがありましたが、アイヌと和人の文化接触は比較的緩やかであったため、アイヌ文化の儀礼・祭祀の独自性や各寺に対する信仰と崇敬の念が保たれたまま今日に至っています。そこには明治以降とは異なるアイヌと和人の関係史が見てとれます。
各寺は蝦夷地で死亡した和人の葬儀とアイヌ民族への仏教布教を目的に建てられました。背景には対ロシア政策として幕府による蝦夷地支配を示す狙いがありましたが、アイヌと和人の文化接触は比較的緩やかであったため、アイヌ文化の儀礼・祭祀の独自性や各寺に対する信仰と崇敬の念が保たれたまま今日に至っています。そこには明治以降とは異なるアイヌと和人の関係史が見てとれます。

写真(国泰寺)

写真(善光寺)

写真(等澍院)
厚岸国泰寺
国泰寺(鎌倉五山派景運山国泰寺)は、江戸時代後期にあたる文化元年から2年(1804~1805)、ロシアの南下・異教の侵入・場所請負制度の弊害など北方の危機が叫ばれるなか、蝦夷奉行の願い出により幕府が建立した蝦夷三官寺(有珠善光寺・様似等澍院・厚岸国泰寺)のひとつで、厚岸湾に突出する半島の神明宮(厚岸神社の前身、寛政3年(1771)最上徳内の建立)の1km四方の風除林をその寺有地として創建されました。
現在、建物のほとんどが改修を経ていますが、国泰寺境内は江戸時代のたたずまいを伝えており、また蝦夷地における特異な歴史的役割を果たした重要な寺として、昭和48年10月19日、「国泰寺跡」として国の史跡に指定されました。また、国泰寺に所蔵されている歴代住職によって書き継がれてきた記録「日鑑記」をはじめとした文書・記録類には、アイヌ民族の人たちに関する記述も見られ、当時の生活を知る上で大変貴重な資料であり、平成17年6月9日、「蝦夷三官寺国泰寺関係資料」として国の重要文化財に指定されました。
現在、建物のほとんどが改修を経ていますが、国泰寺境内は江戸時代のたたずまいを伝えており、また蝦夷地における特異な歴史的役割を果たした重要な寺として、昭和48年10月19日、「国泰寺跡」として国の史跡に指定されました。また、国泰寺に所蔵されている歴代住職によって書き継がれてきた記録「日鑑記」をはじめとした文書・記録類には、アイヌ民族の人たちに関する記述も見られ、当時の生活を知る上で大変貴重な資料であり、平成17年6月9日、「蝦夷三官寺国泰寺関係資料」として国の重要文化財に指定されました。
写真(国泰寺(葵の紋))

写真(蝦夷三官寺国泰寺関係資料)
国泰寺に関する文化財の詳しい内容はこちらをご覧ください。(外部リンク)
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厚岸町役場TEL:0153-52-3131FAX:0153-52-3138
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